故濱野準一氏は昭和43年11月、先代の濱野六郎氏の死去に伴い高砂電器産業(アビリット株式会社の前身)社長に就任。翌年濱野氏は松下電器産業へのテレビチューナーの供給を開始すると共に、教育用カセットレコーダーを生産。同46年にデジタル電子応用のゲームマシンを完成、同52年には、アメリカの半導体メーカー、フェアチャイルド社のマイクロプロセッサーを採用、現在のパチスロの原点となる世界初のマイコン応用大型スロットルマシン(当時の呼称)を開発に成功している。
同機は当初警察当局のコンピューターによる遊技機への認識が薄く、当初導入が認められなかったものの、濱野氏は根気強く警察当局を説得するなど回胴式遊技機の認可に尽力したことでも知られている。
また濱野氏は昭和55年、不正事犯が続出していたパチスロ業界の健全化のためにパチスロメーカー7社(当時)による協同組合「日本電動式遊技機工業協同組合」の設立に尽力、自ら初代理事長に就任するなど草創期のパチスロ業界の旗ふり役として牽引。その後も昭和57年にアメリカのカジノ向けのスロットの生産、輸出。パチスロ用発光ダイオード(LED)ディスプレイ装置の試作完成させた他、『ドリームセブン』などのヒット機をコンスタントに市場投入し、平成8年には同社を大阪証券取引所第2部市場に株式上場させている。
機械開発の一方で入金機能を付加した『クリエイションカードシステム』を開発、発売するクリエイションカード情報システム(株)を設立。平成10年に製品を市場投入、先行3社による独占的な市場を崩し、パチンコ遊技用プリペイドカード市場に画期的なコストダウンと利便性をもたらした。こうした精力的な濱野氏の足跡はパチスロの歴史そのものであり、同時にパチンコ・パチスロ業界のイノベーター的存在であった。昭和2年7月生まれ享年78歳。